和寒町役場

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和寒町指定文化財

ペオッペ駅逓所跡(えきていじょあと)

ペオッペ駅逓所跡 和寒から幌加内を結ぶ馬車道として活況を呈していた当時の剣渕村ペオッペ14線に、官設駅逓所が開設されたのは明治42年のこと。その後廃止となる昭和3年までペオッペ駅逓所は、交通の要衡としてだけではなく、人々の交流にも大きな役割を果たしました。そんな当時の生活文化の息吹を伝える場所として、ペオッペ駅逓を保存。

神楽面(かぐらめん)

神楽面 明治38年に広島団体として入植した人々が、故郷で習い覚えた神代神楽を舞う面として使用していたものと考えられています。神楽舞は、昭和初期まで中和地域でおこなわれていましたが、神楽団の解散にともない昭和19年に神楽面を和寒神社へ奉納。現在も残る神楽面は張子の面で、広島団体が当時取り寄せたものであれば、製作されたのは100年以上も前ということになります。

 

 

 

 

稚児舞

 昭和13年に和寒神社が創立、その翌年の昭和14年が稚児舞の発祥とされている。その後、戦時中の為か一度途絶えてしまったが、昭和28年8月に子ども達による神楽舞が新たに奉納されるようになり今日に至っている。戦後初めて和寒神社に正式に奉納された稚児舞は、故多田キエノ氏(当時和寒高等学校教諭)が町内婦人会に呼びかけて「和寒神社稚児舞奉納婦人会」を結成したことから始まった。三条神楽の流れを組む六つの舞を組み込んだ七構成で、小学1年生の「榊の舞」から始まり「末広の舞」「羽返しの舞」「太平楽の舞」「早乙女の舞」「鈴上げの舞」「浦安の舞」と中学3年生までの9年間、4人1組の同じ稚児が奉納する稚児舞は道内でも和寒神社にしかないといわれており、長い伝統を受け継いできた。

 

青い目の人形

 第1次世界大戦後の国際社会は軍縮に傾く中で、大正11年(1922年)2月ワシントンで日英米など5ヶ国海軍軍縮条約の締結が行われ、国内では陸軍4師団の削減問題で不満がくすぶる中、アメリカの排日移民法(大正13.5)の成立は日米関係を一挙に悪化した。このような危機状況を乗り越え、両国民の友情を育てるためには、まず子どもどうしの交流をきっかけに、将来への友情を育てたいとの理想から、昭和2年(1927年)に、ひな祭りの伝統のある日本に向けて「友情の人形」が「世界児童親善会」(ニューヨーク本部)から「日本国際児童親善会」へ12,739体が贈られた。  贈られた人形のうち、643体が北海道の子ども達に届き、和寒町では、和寒小、中和小、三和小に贈られた。(平成9.6.18北海タイムス)。昭和16年(1941年)に太平洋戦争に突入し、「青い目の人形」は軍からの命令で次々と処分されていったが、全国各地でひそかに保管されていたことがわかり現在では278体が確認されている。上川管内に何体配分されたかは不明であるが、道内に現存している人形は22体とされており、そのうちの1体が旧三和小学校に保管されていた。 

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