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塩狩峠記念館友の会会報「塩狩峠」第8号

第8号(平成16年3月発行)
発行・編集 塩狩峠記念館友の会

第8号-アイスキャンドルの集い1第8号-アイスキャンドルの集い2

長野政雄さんを偲んで 2.28塩狩峠 アイスキャンドルの集い

2月28日、塩狩峠アイスキャンドルの集いが塩狩峠記念館近くの「長野政雄殉職の地」顕彰碑前で開かれました。
三浦綾子さんの代表作「塩狩峠」の主人公モデルとなった故長野政雄氏を偲び、塩狩温泉の主催で開催されるもので、私たち塩仮峠記念館友の会会員も参加してきました。
今回は、長野政雄氏が殉職し95年、記念碑を建立してから35年を迎えます。
集いは、15回目をむかえ、アイスキャンドルから放たれるほのかな光に包まれながら、道内外から三浦文学ファン約150名が集まり、牧師のメッセージを聞き、讃美歌を歌い、故人の冥福を祈りました。その後、三浦綾子さんの夫で三浦光世さんの講演が記念館で行われました。

 明治42年2月28日、塩狩峠において、国鉄職員長野政雄氏が自らの生命と引き換えに乗客を救った列車事故。時と場所を変え、同じようなバス事故が長崎県でもおこっていましたので、ご紹介します。

長崎県時津町
 乗客の命を救わなければ・・・・ 自らの体を投げ出してバスを止めようとした車掌

 戦後間もない昭和22年(1947年)、乗客の命を守るため、バスの車掌だった鬼塚道男(当時21歳)は、自ら体を張って輪止め(車のブレーキ)となり殉職しました。
 事故現場となった長崎県時津町元村郷の国道206号線沿いの打坂峠には、鬼塚車掌の勇気をたたえて建てられた「愛の地蔵」が、道ゆく人々の交通安全を静かに見守ってくれています。
 当時の打坂峠はくねくねと曲がっていて、バスの運転手からは「地獄坂」と呼ばれていました。道路はまだ舗装されておらず、勾配が20度もあり、馬力のない木炭バスにとってはつらい急な坂道でした。木炭バスというのは今のようなガソリンでなく車体の後ろに大きな釜を付け、木炭を焚いて走るバスで、30人も乗れば満員になるほど小さなものでした。
 鬼塚車掌は、長崎自動車株式会社大瀬戸営業所の2階に住み込んで働き、彼が車掌を務めるバスは、大瀬戸から長崎までの道を1日1往復していました。
 朝8時の大瀬戸発であれば2時間前の6時には木炭をおこして準備をし、火の調子を整えておかなければなりません。
 また、走っていてもよくエンジンが止まり、そのたびに釜のなかの火を長い鉄の棒で突いて木炭をならしながら走っていました。このような釜の火の調子を整えることが、木炭バスの車掌の仕事でした。
 事故の起こった昭和22年9月1日、鬼塚車掌が乗ったバスは、打坂峠の頂上までもう少しのところでギアシャフトがはずれ、ついに動かなくなってしまいました。ギアシャフトがはずれると、バスのブレーキはまったく効きません。バスはズルズル、ズルズルと急な坂道を後ろに下がり始めました。
 「歯止めの石をかませ!」
と絶叫する運転手の声で飛び降りた鬼塚車掌は、手近にあった石をバスの車輪の前に置きましたふが、加速のついたバスは石を粉々に砕き、あと数メートルで高さ20メートルの険しい崖のふちというところまで迫りました。崖にバスが落ちれば乗客の命が危ない・・・・・・。
 その日、最初に事故現場に駆けつけたのは、長崎自動車株式会社時津営業所に勤めていた高峰貞介です。朝10時を少し過ぎたとき、自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちているぞ。早く行ってくれないか」といって、時津営業所に駆け込んできたのです。
 高峰が木炭トラックに乗って急いで駆けつけると、バスは崖っぷちギリギリのところで止まっていて、運転手が1人真っ青な額をして、ジャッキでバスの車体を持ち上げていました。
 高峰は後に事故の状況について、こう語ってくれました。
 「鬼塚車掌は自分が輪止めにならなければと思ったんじゃないでしょうか。体ごと丸くなって飛び込んで、そのままバスの下敷きになりました。鬼塚車掌の体はバスの下から引きずり出して、木炭トラックの荷台に乗せました。背中と足にはタイヤの跡が付いていましたが、腹はきれいでした。10秒か20秒おきに大きく息をしていたので、ノロノロ走る木炭トラックにイライラしながら、しっかりしろと声をかけて・・・・・。9月といっとも1日ですから、陽がカンカン照って、何とかして陰をつくろうと鬼塚車掌に覆いかぶさるようにして時津の病院に運んで、先生早く来てくれ、早く早くって大声をだしました。その晩遅くに、みかん箱で作った祭壇と一緒に仏さんを時津営業所に運んできたのです。」
鬼塚車掌は、炎天下のトラックの荷台で熱風のような空気を大きく吸い込んだのが最後でした。買出し客や、市内の病院へ被爆した子どもを連れて行く途中の母親たち30人あまりの命と引き換えに、若い生涯を閉じたのです。
 この悲しい事故から27年の月日が流れた昭和49年(1974年)10月19日、長崎自動車株式会社は、鬼塚車掌の勇気をたたえ、交通事故をなくそうと、時津町元村郷の事故現場に唐津石でつくった慰霊地蔵尊を建て、入魂式を行いました。
 この慰霊地蔵尊「愛の地蔵」は、赤いよだれ掛けを風に揺らし、鬼塚車掌の命日である9月1日には毎年供養祭が行われています。

友の会リレートーク 峠の呟き 「塩狩峠記念館と私」 吉田敦子

 白樺林の中に建つ記念館。温もりのある木造のホールで聴いたハープの演奏は、新緑の季節と相まって実に素晴らしかった。
また、記念館でテープによる口述筆記(小説「塩狩峠」は口述筆記の始まりとか)に挑戦し、ご主人光世さんの陰の力の大きさと綾子さんとの執筆の光景に思いを馳せ深く感動した。そして、長野政雄さんを偲ぶ「アイスキャンドルの集い」では遠く福岡からご夫婦で訪れたという人、一週間塩狩に滞在してこの日を迎えたという人に出会い、信念を持って生きている人と自分を照らし合わせ大いに刺激を受けました。
日本全国から三浦文学ファンが、この記念館を訪れ、何かしらの感想をノートに残してくれ、和寒という町を知ってくれることも嬉しいことである。
私にとっての記念館は、さまざまな人と出会い、感動と刺激を得る場といえる。

死してなお名を残す、珠玉の三浦文学(1)

 作家三浦綾子さんの小説と言えば、作家となったきっかけ「氷点」や、本町とゆかりの深いベストセラー「塩狩峠」が有名ですが、他にもいろいろな作品を遺しています。町立図書館や塩狩峠記念館に置いてありますので、一度読んでみては・・・・。三浦文学の世界が広がるかも。

『まっかなまっかな木』

 この作品は三浦綾子さんが子どものために書いた唯一の短編童話です。物語は、ちっちゃな男の子が主人公。その子は家の近くの野原に立っている1本の木に心がつよくひかれます。いくども失敗しながらも憧れのその木にたどり着くまでの、小さなかわいらしい冒険を描いたファンジーの世界です。

『水なき雲』

 受験期の少年をもつ自己中心な二人の姉妹は、母親として心密かに張り合う。その確執を通して、二つの家庭の夫婦・親子・兄弟たちの綾なす複雑な人間模様を描きつつ、失われた幸せとは何かを探る物語です。

『雪のアルバム』

 父親を知らずに育った女性が主人公。屈折した暗い生活だったが、信仰深い叔母と1人の少年との出会いで、心の中にいつしか明るい未来への希望の光がともってゆく感動の物語

三浦光世氏コーナー設置

 故三浦綾子さんと二人三脚で歩んできた夫、光世さんの協力のもと、本や貴重な資料などを展示、夫婦の人柄に触れることができます。時期は未定ですが、決まりしだい改めてお知らせ致します。

懐かしの切符

 昭和40年後半から50年代の塩狩駅の入場券や切符、記念切符を4月1日より展示致します。

四季の魅力の玉手箱『塩狩峠ポストカード』完成

 友の会会員、田中文人さんが昨年に引き続き、新たに塩狩峠ポストカード「夏・秋」を作成しました。
セミの声が今にも聞こえてきそうな猛暑の中、新緑の爽やかさを漂わせる峠の夏、赤や黄色など色とりどりの木々が山を覆い尽くす紅葉の秋など、昨年の「春・冬」と合わせて1セット、12枚のポストカードに塩狩峠の四季折々の魅力が込められています。
4月中旬以降に塩狩峠記念館で販売する予定ですので、お楽しみに!

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